研究の必要無駄な側面

■追求
まだ私が電機メーカーの研究所に勤務していたころだから今から20年も前のことになるが、資料室で学術誌を拾い読みしていて、ある強烈な論文を見つけた。それは権威のある物理学の論文誌に掲載されていたもので、著者はイギリスだかフランスだか忘れたが欧州の大学教授で、かなり高名な物理学者のようだった。その教授と助手の間に、このようなやり取りがあったに違いない。
「ブラックコーヒーとミルク入りのコーヒーでは、どうもミルク入りの方が冷めにくいように思うのだが、君、どう思うね」
「いや先生、それは気のせいでしょう」
「そうかなぁ。一丁調べてみるか」
 ということで、研究が始まる。その様子を論文はあますことなく伝えているのである。
(中略)
■許容
先年、食料・医薬品材料などを手掛ける林原グループの中核企業の一つ、林原生物化学研究所の研究開発担当役員の方にうかがった話である。林原グループはそもそも明治年間に水飴屋として創業したということもあり、糖の研究が盛んに行われていた。そんな中、ある研究者が「甘くない糖」を開発してしまったのである。
 上司は当然、「どうするんだそんなもの」と聞いた。けど、研究者に「こいつは売れる」という確たる感触があるわけではない。ただ「面白そうでしょ」というだけなのである。それでも上司は研究の中止はさせなかったようだ。そしてめでたく、甘くない糖は製品として完成する。いよいよ量産、発売ということで、今度は役員会にかけられた。幹部たちも一様に「どうするんだそんなもの」と首をひねったが、「やめとけ」とは言わなかったらしい。スゴい人たちである。

ちょっと長いですが一部引用してみました。こういう話を読むとワクワクしてしまいます。研究とは世の為になるテーマであるべき、というのが今の風潮ですが、こういう知的好奇心から出発して終着点が見えない研究があってもいいじゃないですか。この記事のテーマは「必要無駄」なのですが、いいものを作り出す土壌に必要な要素だと思います。というか、このぐらいのキャパがないと研究って育たないと思う。