そうだ、村上さんに聞いてみよう

(J.D.サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳した村上春樹さんと翻訳家の柴田元幸さんとの同作品についての対談の一部です)

村上春樹:僕は『海辺のカフカ』という小説の中で、猫を残酷に殺す男の話を書いたんです。そうしたら抗議のメールがけっこう来ました。そんな残酷なシーンを書くべきじゃないって。でもね、僕はこれまで小説の中で人を殺すシーンをいくつか書いてきたんです。しかしそれに対する抗議はそんなには来なかった。少なくとも猫を殺したときほどは来なかった。それは考えてみたら変なことですよね。要するに猫というのは我々人間より弱い者であって、イノセントであって、だからそういうものをいじめているやつがいると、感情的にアプセット(動揺)するし、かわいそうだと。それに比べると、人間というのは自分に脅威を与えかねないものであって、そういうものが殺されることに関しては、とくに同情はしないということなのかな。
 このあいだインドネシアのタンカーが火事になって、乗組員はみんな船を捨てて逃げたんだけど、雑種犬が一匹あとに残されたんです。それを救出しようと、アメリカの動物愛護団体が寄付を募ったら何十万ドル集まって、それでボートをチャーターして助けに行きました。あれ、犬だからそれだけ集まったんですよね。

編集部:タマちゃんにはほいほい住民票をあげるんだけどという感じで。

村上:うん、だから、そういう気持ちって、まあ、わからないでもないんだけど、よく考えると、価値基準としてはやはりいささか不安定じゃないかと。】

そんな抗議をわざわざメールする読者がいるんだ・・・と思ったんですが、よく考えたら『海辺のカフカ』ホームページのメールコーナーのやり取りなのでは?少年カフカを目にすればわかりますが、あそこでは真面目な論評からカジュアルなやり取りまで入り乱れてましたから、そのチャンスに「でもやっぱ猫を殺すシーンはひどいですね」的にメールする読者だって一定数いたと記憶しています。対する「人を殺すシーン」で最も残酷なのの1つがねじまき鳥の皮はぎボリスですが、こちらには作品の公式ホームページも大々的な感想募集もなかったでし、そもそも1994年刊行で電子メール自体が使われておらず、わざわざ手紙で抗議する人が少なかったんじゃないでしょうか。それに、皮はぎボリスの方は残虐すぎて、抗議する気力すら残らないくらい打ちのめされる描写ですし。猫殺し−人殺しの比較対象として適切だとは思えないです。
とはいえ「不安定な価値基準」という趣旨には賛成です。火事にあったタンカーに残されていたのが人間だったら何十万ドル(何千万円)単位の募金なんて集まらないでしょうから。南極物語だって、タロ・ジロが人間だったら、大ニュースにはなっても映画化はされなかったでしょう。ただね、村上さん。あなたねじまき鳥で笠原メイに「カソリックの学校に入学したら『災害時にあった時には猫より人間を助けろ』って話をされて信じられなかった。あの人たちジョークじゃないのよ」って語らせませんでした?あれは不安定な女子高生を表現するためのてエピソードだったんでしょうかねぇ。そうなら実に巧妙なラインです。