ゲーテッドコミュニティのいきつく先


 ここで、「ケガレ」から「セキュリティー」に視点を変えてみよう。

 社会学者のジグムント・バウマンは「ゲーテッド・コミュニティー」を例として、過剰な「安全」の追求は何をもたらすかを述べている(「コラテラル・ダメージ青土社)。彼の卓抜な比喩によれば、それは「子供たちが完全に安全な環境で水泳を覚えられるようにと、プールから水を抜くようなもの」なのだ。

 安全とセキュリティーには「これで十分」という基準がない。それゆえに放射能のように、「これ以下は安全」というしきい値が未確定で、なおかつ眼(め)に見えない存在に対する場合ほど、安全性の追求は「強迫観念」に似たものになる。

 そうした強迫観念は、バウマンも指摘するように「恐怖心や不安、敵対心、攻撃性、道徳的な衝動の弱まりや抑制に伴う、不安定さの縮小ではなく、むしろその急速な増大」をもたらす。また長期化することで、相互信頼が掘り崩され、猜疑(さいぎ)心(しん)の種がまかれ、意思疎通が難しくなる。

このプールの例えはよく分からないですが、いきすぎた安全思考とセキュリティ観念は同じ根っこにあるのは理解できます。ゼロリスク志向とNIMBY志向が判別不能で、今は手がつけられない状態になりつつありますよね。沖縄で青森の雪遊びが中止に追いやったのは「すごいすごい! 」「やったぁ! ゆき、中止!!」と無邪気に喜べる少数派で、彼•彼女らの科学的根拠のないクレームを抑えやすいのは、科学的根拠ではなく、同等以上の勢いを持つクレームなのですから。正に「意思疎通がむずかしくなる」にピッタリな状況です。