属性差別はこうやって作り出される

「たとえば、教育問題について論じるのであれば、現時点で無職であっても、経験談としてなぜこの人が出てくるのか説得力を持たせるために『元教諭』などの肩書きを用います。でも、そうした必要が特にないときは、仕事をしている人なのか、この人がどういう人なのか、端的に示すために『無職』と書きます。これには特段の意味づけはしていません」
あくまで「そのときの状況に応じて、ケースバイケースで必要な情報を届けるために、無職という肩書きが選ばれている」とのこと。もっともではある。
では、余計なお世話ついでに、「無職」にかわる表現は存在しないのかと聞いてみると……。
「『無職』という肩書きが望ましいか望ましくないかは、どこの新聞でも使っている表記ですから、ふさわしくないことはないはずです」

以前「どうして日本のマスコミは容疑者の年齢・職業を報道するのか」というエントリを書きましたが、くしくもちょうど1年後にその答えになりそうな文章に行き当たりました。「ある大手新聞社の編集現場にいた人」のコメントの一部を引用しましたが、新聞の編集者は「この人がどういう人なのか」を表すために職業をつけます。しかも場合によって「無職」が「元教諭」になる場合もある、と。1年前のエントリには

例えば「銀行強盗の容疑で逮捕された○○(会社役員)」というのと「銀行強盗の容疑で逮捕された○○(無職)」というのでは、受ける印象は全然違います。しかも同じ無職でも「無職、65歳」というのと、「無職、30歳」というのでは、読む人によっては180度違う印象を持つ可能性があります。が、犯された犯罪の重さに違いはないはずです。銀行強盗の罪の重さを属性によって呵責するのは裁判官の仕事であり、メディアは中立公正でないといけないのでは?

と書いたのですが、メディアは中立公正どころか(無意識にせよ)意図的に、自分が書きたい方向の属性を書いてます。しかも「どこの新聞でも使ってる表記だから」という噴飯ものな理由を口にするあたり、問題だとすら思ってないようです。逆にこういう記事を書いたexciteのライターさんの方が問題に気づいていらっしゃる。皮肉なものです。