震災と「語りなおし」


 語りなおしは苦しいプロセスである。そもそも人はほんとうに苦しいときは押し黙る。記憶を反芻(はんすう)することで、傷にさらに塩をまぶすようなことはしたくないからだ。あの人が逝って自分が生き残ったのはなぜか、そういう問いにはたぶん答えがないと知っているから、つい問いを抑え込んでしまう。だれかの前でようやっと口を開いても、体験していない人に言ってもわかるはずがないと口ごもってしまうし、こんな言葉でちゃんと伝わっているのだろうかと、一語一語、感触を確かめながらしか話せないから、語りは往々にして途切れがちになる……。

 語りなおすというのは、自分の苦しみへの関係を変えようとすることだ。だから当事者みずからが語りきらねばならない。が、これはひどく苦しい過程なので、できればよき聞き役が要る。マラソンの伴走者のような。(中略)

 いや、そもそもわたしたちはほんとうにしんどいときには、他人に言葉を預けないものだ。だからいきなり「さあ、聴かせてください」と言う人には口を開かない。黙り込んでいた子どもが、母親が炊事にとりかかると逆にぶつくさ語りはじめるように、言葉を待たずにただ横にいるだけの人の前でこそひとは口を開く。そういうかかわりをまずはもちうることが大事である。その意味では、聴くことよりも、傍らにいつづけることのほうが大事だといえる。

とても良い文章なので、一部を引用するのをためらったほどです。できれば引用元をご一読ください。本当に苦しい体験をした人は、その苦しみから黙り、回復の過程で初めて言葉にできる・・・ 確かにそうでしょう。自分の経験から言っても間違いないと思います。しかし、苦しんでいる人が言葉にできるようになるまでの間、辛抱強く傍にいるというのは、並大抵の精神力じゃありません。だからこそ、世の中には臨床心理士やカウンセラーがいて、言語化の手助けになる療法が沢山あるんだと思います。
今回の震災と原発事故では、専門家のカウンセリングが必要なほど深い精神的ダメージを受けた人が、何十万人といます。この人たちのケアをどうするか、それは政治家・マスコミ・一般人じゃ手に負えない領域です。どこか、例えば精神領域の学会かどこかが、組織だった対策を練っているのでしょうか・・・難しいだろうな。