仕方話と田舎者、子ども・オジサン・オバサンっぽさ


われわれ一般人の「仕方話」とは、近代的な「公」(パブリック)の場では表に出てこない「私」(プライヴェート)の領域に親和性を持つということだ。(中略)
 さて、公私の別はつねに白黒はっきりしたものではない。ご存知のとおり、そこにはグレイゾーンがある。
 あなたが定時に退社してスポーツクラブに行くとき、会社からすればあなたの時間は完全にプライヴェートだ。しかしロッカー室でいっしょになった、先々週知り合ったばかりの人とあなたとの関係は、あなたの家族とあなたとの関係に比べれば、ずっと親密さを欠くだろう。
 その人相手にあなたは、それをピンポイントで質問されてきたわけでもないのに、たとえば自宅の飼い犬がいかにバカでカワイイかということを例証する逸話を、仕方話で提示するだろうか。
 しないはずだ。
 する奴は田舎者だ。
 (ご存じのとおり「田舎者」とは「辺鄙な地域に住む人」「辺鄙な地域出身の人」という意味ではない)
 このことからわかるのは、近代的な「公」の場を知っている人、とは、一般に思われているように「ビジネスとオフタイムの別を知っている人」のことではなく(公私の区別は民俗社会にだって存在するだろう)、じつはこの「社交の場での自制」という振る舞いを知っている人のことなのだ、ということである。(中略)
 男の「下手な仕方話」は「地元じゃ負け知らず」的な自慢話とニアリーイコールだが、女の「下手な仕方話」は甘えの発露である。
 「他人が私に興味を持って当然」という想定は、まともな子どもなら小学生時代に捨てはじめるものだ。この想定を15歳を超えて持ちつづけている人間は人を困惑させるものだが、なかにはそういう女をかわいいと思う男がいる。だから同性には「そういうのが好きな男に媚びている」と敵視される。
 そして年を重ねて、気がついたら逆に「おばさん臭い」と見なされている。「下手な仕方話」も、やる人によって「幼稚」と言われたり「おばさん臭い」と言われたりするのだ。
仕方話とは、国語辞典的定義では「身振り・手振りをまじえた話」ですが、このコラムの著者は

最初から結論を提示せず、できごとを時間順に語る。できごとを要約せず、できごとの流れを、感情をこめて再現する。報告中の自分や他人の発言も、要約ではなく再現する(しばしばモノマネつきで)

だそうです。前の職場にもこういう人がいました。そんなに親しくもないのに自宅のトイレのトラブルの仕方話を延々と続けたり、第三者のプライベートな話をミーティング中にポロポロ漏らしたり。ずいぶん子供っぽい奴だなぁと少し距離を置いてたのですが、このコラムを読んで合点がいきました。彼の場合は「他人が私に興味を持って当然」という態度ではなかったので、「公私」のグレイゾーンが曖昧っぽかったですから、幼稚じゃなくて「田舎者」の方ですね。まぁ周囲の人からすると、どちらも迷惑ですが。
こないだの都心と地方のTVインタビューの違い、というのも、これで説明がつきそうです。都心でインタビューに答える人は「公」だから淡々と答える。地方の人は、インタビューでも仕方話をしてしまう。なるほど納得。